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この心にある感情は今まで抱いたことがなかったものなので、女はただ遠くにいる男を見つめているだけだった。グランサイファーが停泊している間、団員達は自由に時を消化する。以前の彼女ならば真っ先に稽古に励んでいたのだが、どうにも最近はそちらになかなか気が向いてくれない。
とある小さな森林公園、木漏れ日が差し込む樹の下で凛とした声は古の言葉を紡ぐ。その美しい声に集まる光は決してそのままのものではなく、邪悪を滅する無慈悲なものであるということはよく知っていた。
男の名はサルナーンといい、女と同じエルーン族である。同族だからといって彼とは友人関係ですらない、ただ同じ騎空団に所属しているだけの間柄だ。彼は気難しい性格をしていることもあり、団員と談笑している姿は見かけたことは稀であった。
だから彼について知っているのは、団長から伝え聞いた話がほとんどのもの。共闘することがなかった訳ではない。女は弓を扱うことから後方支援が主だったので、魔法を扱うサルナーンと並び立つことはむしろ多い方だ。
エルーンの女・スーテラは戦いを通じて、彼の意思の強さとかそういったものを尊敬するようになっていた。聞けば一人で幾人の魔物を相手に出来るほどの実力があり、一人で旅をしていても問題ないと言ってのけたのだという。
しかし彼の同行者が共に行きたいと願ったことから、仕方なく折れて今に至るとのこと。もっともその同行者の姿をスーテラは見たことがない。正確には彼女には見えないと言った方が正しいのだろう。
「あなた、そこで何をこそこそと覗き見をしているのですか?」
「も、申し訳ありません! いえその、いつも熱心に鍛錬を重ねられているなと……それでついついこのような無礼な真似をしてしまいました……」
いつから気付いていたのだろう、聡い彼のことなのでだいぶ前からだったのかもしれない。普段から他者と話すことも煩わしそうな様子だったし、スーテラのことを見て見ぬふりをしていたということも考えられた。
そうであるならば、やはり申し訳ないことをしたなと反省する。それでも彼の所作から目が離せずにいて、滑るように空を切る指先に惹かれていたということが紛れもない事実なのである。雲が太陽を暫し隠して、陰ったサルナーンの表情はより険しく見えた。
「ならば今度から許可を取ってください。正当な手続きを踏めば、私だってこのように目くじらを立てることもありません。あなた如きに見られていて集中が途切れるなどと、三流のようなことを言うつもりはありませんしね」
「以後、そのようにします。重ね重ね申し訳ありません……」
第三者が見ればきっと、スーテラだから穏便に済んだ局面だったように思われるのだろう。彼女はサルナーンがいかに高慢な態度を取ろうとも、自身よりも実力のある者だと認めているからこそ何の憤りも浮かばない。むしろその堂々たる態度こそ、彼の強さの表れなのだろうと納得していたのだ。
流れで見学のお許しは出たので、立ったままでいるのもおかしな話だと芝生へと座り込む。その後、サルナーンはスーテラには見えないヒトへと語り掛けていた。騒がせてすみません、そう嬉しそうに語る横顔をみると彼の世界のほとんどはその姿の見えないヒトで占められているのだと理解した。
サルナーンの同行者とは、ヒトならざる者であり俗に言う精霊であった。魔力に秀でた、もしくはルリアのように特別な者にしかその姿は見られることがない。語らうことなんてきっと、この先はできないのだろう。
ハニーと甘く名を呼ばれた見えないヒトのかすかな気配だけを感じる。ハニーとサルナーンは恋人同士だそうだ。触れることもできないけれど、語らうことで絆を結んできた。恋だ愛だに疎いスーテラでも、それがとても美しい愛だということはわかっている。
いつか自分もあんな風に誰かと絆を結ぶことができるのか、憧れがない訳ではない。女として生まれた以上、素敵な殿方とのロマンスの機会にさえ恵まれればきっとスーテラもサルナーンのように微笑むのだろう。
けれどもそれを考える度、浮かぶのはどうしてかサルナーンであった。人様の恋人を勝手な空想に借りるなんて、そう思いながらもどうしてか彼が見えてくる。それに美しい愛だと認めているのに、どうしてか二人を見ていると胸の奥がジリジリするのだ。
(まさか、そんな……)
そうだ、気付かないふりをしていよう。認めてしまえばそれはきっと、正体不明の何かではなく明確なものになるのだろう。ただ易々と認めたところでどうにもならない。強者への憧れ、これはきっと実姉に抱くものと同じ感情だ。
彼のようになりたい、そう思っている。ただそれがときどき彼の役に立ちたいとか、彼の側にいても邪魔にならない存在になりたいという気持ちに変化しそうになる。サルナーンとハニーの世界に自分などはいらないと知っていても、ときどきどうしようもない感情を抱いてしまうのだ。
「……こんなものを見ていてよく飽きませんね」
「はい?」
不意に話し掛けられ、素っ頓狂な声を出す。サルナーンは溜息を吐き、なにかをぶつぶつと呟いた後にその場を去ろうとするのであった。重たげなローブが芝生を這いずり、慌ててスーテラはその後を追い掛けた。
「やはり気が散ってしまわれたのでは?」
「いいえ、根を詰めすぎてもよくないとハニーが言うものですから。ねえ、彼女はとても優しいでしょう?」
誇らしげにそう語る、まるで自分に向けられたものだと勘違いしてしまいそうなほどだった。それから彼にそうまでさせるハニーのことを少しだけ羨ましく思う。これも伝え聞いた話だが、イスタルシアに一日でも早く至るべく彼は鍛錬を重ねているのだと。
「……あの、早く辿り着けるといいですね。イスタルシアへ」
「そうですね。早く至らねば」
サルナーンの顔に一瞬、焦燥にも似た何かを感じた。まるで時が流れていくことを恐れるような、彼らしくもない少しだけ弱気な表情である。彼でも怖いことがあるのか、なんだか意外に思えてなぜかそれは少しだけ嬉しく感じられる。
そんな様子のスーテラに気付けば、眉間に皺を寄せてわざとらしく咳払いをする。気付いてまたスーテラは謝罪の言葉を口にした、やれやれといった顔をしたサルナーンは遠い空を見つめている。まだ見えないイスタルシアへ思いを馳せているのだろうか?
「サルナーン殿?」
「人の命は有限です。イスタルシアは伝説でのみ伝えられた存在、いつ辿り着けるのでしょうか。それはいくら英知を重ねても、わかるものではない」
ゆっくりとそう語り始めたサルナーンにスーテラは戸惑う、何かを言わねばと考えて出てきた言葉は簡単すぎた。今まで抱えていた思い、誰とも交わらない彼にとっては迷惑でしかなかったとしても伝えたかった。
「イスタルシアに至ることは団長殿の目標でもあります。私はまだまだ未熟者ですが、誰かの為に力を使えることはとても素晴らしいことです。だから、団長殿やサルナーン殿のお手伝いをさせてほしい」
自分たちのリーダーの名を出すことでしか、彼に対しての思いを伝えることができなかった。そんな風に言えば、彼だけに向けられた思いではないと捉えてもらえる。お節介などではなく、ごくごく当然の行為だと受け取ってもらえるはずなのだと。
スーテラの努力は報われることは恐らくはない、あってもせいぜい感謝の言葉をもらえる程度だ。望んではならないし、望むつもりもない彼の隣は見えないヒトのもの。疎んだりはしない、だってそのヒトは彼を笑顔に出来る唯一の存在なのかもしれないから。
「……そうですね。その為に尽力してもらえるならば、私にもハニーにとっても有益です。けれどもあなたが気負う程のことではない。誰かを理由にして戦って、たとえ傷付いてもそれはあなたの責任になりますよ?」
そんなもの、そうなってみなければわからないことだろうに。スーテラは良くも悪くも生真面目だ、助けを求められればそれに応えるだろう。そもそも思い返せば、故郷を離れて旅に出たのは自分の為ではない。いなくなった姉を探す為であり、自ら望んだものではなかった。
「……サルナーン殿、私は姉様を探す為に村を出ました。女の一人旅、決して楽なものではありません。しかしその苦労を姉様のせいにするつもりはありませんし、村を出て良かったことの方がずっと多いんです。たとえば、そう」
言いかけて、そっと口ごもる。そんなスーテラの態度を不思議に思ったサルナーンだったが、すぐにいつもの凛とした横顔へ立ち戻った。まるで答えをわかっているような、その真意を尋ねる度胸など彼女にはない。
「ともかく、私はたとえ誰かの為にとした行いで傷付いたとしても後悔はしません。私が選んだことですから、まだまだ未熟者とは言ってもその責任はちゃんと持ちます。だから……貴方の目的にも少しでも良いから、この力を貸させてはいただけませんか?」
伏せるはずだった思いが出てしまい、なんとなく気恥ずかしかったもののそれはスーテラの本心である。憧れの姉と共に並び立つ日は未だ来ない。いつか再び出会える日まで、サルナーンを代わりにしてしまうことは愚かだろうか?
それでも彼に抱いた心だけは本物だ。たとえ報われずとも良い、いつかこの隣は姉の為のものになる。彼の隣には先約があって、そこで浅ましくも間借りをするようにいるばかりの存在でしかないだろう。
「それでは、あなたのお好きなようになさい。覚悟があるのならば結構、生憎ですが私は他の人間の面倒まで見るほどのお人好しではありませんから。あなたが後悔しないのであれば、この隣は貸しておきますよ」
呆れたような口調ではあったが、どこかスーテラを認めたようにも聞こえる。それがなんだか誇らしかった、一時でもその隣にいることを許されたような心地である。
二人の間を流れて行く風、それは空の果てに続いているのだろうか。恋なんて甘いものでなくてもいい、ただ彼の隣に並び立てることを誇りとしよう。いつかその感情は忘れてしまうべきだ、後悔しないと誓ったのだから彼とその想い人の幸せだけを祈りたいと願っている。