わたしだけの翼
燃えていく空を見つめながら、それでも青年の目には空の果てのそのまた果てを映そうと必死だった。喧噪も遠いような気がする、なにもかもが遠いのは空の果てと同じだろう。
こんなときに呑気だと相棒に笑われそうだったけれど、ともあれまずはここから逃げなくてはならない。迫る怒声に追われながら、自由を手繰るように外界へ出でる。
それが思えば運命の分岐点だったのではないかって、近頃はそんな後悔の夢ばかり見ているのだ。
心は二つ、体も二つ。けれども魂だけはたったひとつきりの、そんな二人がいた。蒼穹の髪を風に靡かせて微睡んでいる少女、それからごくごく普通の、青年が身を寄せ合っている。二人の関係性は言葉で言い表すことが難しくて、こうやって逢瀬のようにしていても決して恋人同士ではない。キスはしない、手は繋ぐかもしれないけれど。それでは彼らはどういう? 大抵の人間はそう尋ねるけれども、この二人もどう言っていいのかわからない。命と魂を共有している、事実だけを述べてしまえばこうなる。そんなことをにわかに信じられる人間は少ないだろう。二人と同じ騎空団の者ですら、未だ疑ったり冗談だろうって笑い飛ばす奴さえいるのだから。
「夜風が冷たいな」
意図を持って掛けた言葉を子守唄かなにかと間違ったみたいにして、少女はとろりと目を閉じていく。言葉ってあったかいんだね、いつか彼女が言っていた。言葉に熱を感じるなんて、そこいらの詩人にすら真似ができないだろう。けれども、彼女にとってはすべてが特別なのだ。
「そうだね」
「……そろそろ寝よう。俺がまた、カタリナにまた怒られる」
夜風が冷たいから、風邪を引いてはいけないのでほどほどにな。そうお小言をもらっているのだから、こうやってずっと空を眺めている訳にはいかない。しかし少女はとても不満そうだ。頬を膨らませ、空の果ての果てを映そうとしている。
彼女にとって、世界はどこまでも素晴らしい創造物である。この年頃の少女はやんちゃ盛りであってもおかしくはないけれど、彼女の事情はとりわけ特殊だった。箱入り娘、世間知らず、そんな言葉が似合いそうなほど彼女はこの世界を知らなかったのだから。
「でもほら、こうやったらもう少しで手が届きそうなんだよ?」
「ルリア?」
少女の好奇心は時として青年を酷く苛立たせてしまう、それを知っているのだろうか。少女は船尾に立とうと駆け出し、それを慌てて青年が追い掛けるのだ。ここは空域の真っ直中、落ちてはまず命が助かるまい。それでも、好奇心と命を天秤で比べるという発想がないほど少女は無垢である。
「危ないだろっ! 戻って!」
少女を心配するというこの行為、それが自己の保身でしかないことにいつだって切なさを感じる。だって彼女が損なわれたら、魂と命を共有する自分は生きていられない。そんな事情がなければ、彼女と自分はただの他人同士なのだろうか。
笑い合うのに、共に旅をするのに。だから彼女の幼さ故に起こしてしまう危なっかしい行動の数々に対して、青年は普段の温厚な性格を打ち消してしまいそうになるほど焦るのだ。だからこうやって、荒げたくもない声を荒げたりする。自分の、醜さを知っていく。
「あっ」
「ルリアっ!」
よろけた体を引き寄せて、その軽さにはっとする。人間じゃないみたいだ、実際にそうかもしれない。魂を分け合う二人の鼓動が重なり、青年は痛いくらいに少女を抱き締める。
「あのっ……」
「もうこんなことはするなよ」
お願いだから、そう言いながら泣いていた。ラカムにもカタリナにも、大人だからこそ見せられなかった涙を流す。助けたことを後悔しているか? いいや自分は、この良心に従っただけなのだ。
* * *
触れてはならぬ者という存在がある、それに触れてしまったルリアは酷く怯えていた。団員であるスーテラの故郷に立ち寄ったグラン達が巡り会った、争いを急かす星晶獣の存在。いつもの爛漫さを感じられないルリアをその場で慰めたけれども、本心はどうだったのかと自問自答する。
「どうかしましたか?」
真夜中、いつかのように二人きりで空を見ていた。森が見えるところで、ざわめく魔物たちを見張りながらである。遅くまで起きているのは大変だから、私も付き合いますとルリアがついてきた。
なんてことない風に笑うけれども、あのときのルリアの表情が忘れられなかった。自分に対して罪悪感を抱えていたルリアの心を知り、自分が持っている憎しみの一片がとても恥ずべきものだと改めて実感する。だから今も、君が傷付かないようにこの場にいてほしくなどなかったのに。
「ルリア、俺は……君に申し訳ない思いでいっぱいだ」
「え? どうしたんですか、いきなり」
いきなりなんかじゃない、昼間にあんなことがあったんだ。そう声をつい荒げてしまう。こんな自分がどうして触れてはならぬ者に惑わされなかったのか不思議なくらいだ。どうしてルリアだけを、その方が自分を苦しめるのだとあれはわかっていたのだろうか。
「……君と出会わなければなんて、そう考えている自分がいた。ルリアの気持ちなんか知らないでさ、だからルリアがあいつに惑わされそうになって、俺のことをあんな風に考えていてくれていたんだって。正直、複雑な気持ちだったよ」
喜んでいいのか、悲しんでいいのか。そりゃ悪いことばっかりだった訳ではない、傷は癒えて今では普通に戦えるようになっている。ルリアを守ると決めた、掴んだ手を空の果てまで離さないと誓ったはずだった。がむしゃらになって、気付かないふりをしていた。やっと向き合う日が来た、ちゃんと大人にならなくちゃいけない。
「あの日の夢を見るんだ。熱くて、痛い夢を。その度に後悔してるんじゃないかって自分に問い掛けてた、ルリアがいなければ俺はとっくに死んでたのにさ……君が、俺を救ってくれたのに」
ヒドラの爪が身を抉る瞬間、今でも忘れられない。すべての熱が集まったように燃え盛る傷、目眩では済まないほどの熱であった。薄れ行く意識の中、胸に広がった優しい熱はきっと君だったのだろう。魂が繋がれる瞬間、やがて二人は一つになった。
「狭い田舎を抜け出したいって思ってて、それでなくなっちゃえばどこにでも行けるかなって思ったんだ。そんなときにあんなことが起きて、ルリアが俺を連れ出してくれたのは事実だ。ときどき君が悪魔みたいに思えるときがある、君さえ来なければあんなことには……あのときは否定しなかったけども、君を不安にさせたのはきっと俺だったんだね」
篝火がバチバチと燃える音がする中、そんな思いを吐き捨てた青年はごめんねとルリアをそっと抱き締めた。ルリアを襲ったのはきっと、自分の醜い心だったんだ。それが彼女を傷付けた、不安で争いを起こさせようと責め立てたのだ。いくら謝っても満足できない、その償いならきっとこの過酷な旅でやっと充分と呼べるだろう。
「俺は今、空を旅してて楽しいよ。辛いことも多いけれど、君がいてくれるからどこまでも行ける。もう自分を不幸だなんて思ったりしない、だから今度は大丈夫。触れてはならない者が出てきても、君を不安なんかにさせないから」
心は二つ、体も二つ。けれども魂だけはたったひとつきりの、そんな二人がいた。少女は青年の頬へそっと手を触れて流れる涙を拭ってくれる。これからの旅は更に過酷さを増すだろうし、生きてこの島から出られる保証はどこにもない。
けれどもこの人がいるなら、私は大丈夫だ。私を連れ去ってくれた、遠くまで飛べる力をくれる貴方はきっとわたしだけの翼。貴方が傷付けば私は飛べない、貴方もきっとそうだ。だから私達は慈しみ合う。魂が一つである限り、私達はお互いがなくしては飛べない弱くて優しい生き物なのだろう。