氷点
鹿威しがカコンと鳴り響き、その瞬間に甘い息が漏れる。情事であるということを知るのは当人達に限られた話であり、細められた瞳に映るのは白。しかし闇に隠れた白、こんな暗がりではあなたの真の美しさは見えない。
しかしひとたび光に満ちてしまえば、その艶やかな姿は白日に晒される。あなたのこんな姿を知っているのは自分だけでいい、このどこまでも淀みのない白を独占したい。何度思っても足りなかった、きっとこれはいつまでも満たされない。無限なる餓鬼道にいるような、言わばこれが乾きだ。
「……何を考えているのでしょうか?」
「それを今、尋ねられますか。ああまったく、江雪殿には敵わんなぁ」
いつものように笑おうとしたのに、その口をさっさと塞がれる。問うたのはあなたなのに、答えを言わせてくれないなんて。普段はどこか憂いを帯びていているその翡翠の色。なのに今だけは、ああその美しい瞳が情欲で燃えている。どこまでも己を貪る罪の色、ゆらゆら陽炎みたいに儚く燃えている。
「こうしているときだけ、私は戦を忘れられる。貴方を慰み者にして、欲しい欲しいと駄々をこねる童のようにしているときだけが……」
鹿威しの音はもう聞こえない。否、聞こえる余裕がない。ずぶりずぶりと内側にあなたが[[rb:浸入> はい]]る。あなたの色に染まる、自分はあなたほどは美しくない。ならばもういっそ、内側から作り替えてあなたにしてほしい。あなたの何かにしてほしい、結局欲深いのは自分も変わらないのだから笑うしかなかった。
彼と初めて交わってからようやく一月だったのに、こうも容易く受け入れられるようになったことが既に果てなのだ。これ以上はどこに落ちることができるか見当もつかない。ゆるりと[[rb:浸食>はい]]り、けれどもその後は燃えるように熱い。
そうなったらもうおしまいだ。僧としての姿を与えられたというのに、禁欲を破り互いを求める業の深さに許しは請わない。この手ずから白く染められるのならば、そして彼が戦という悲しみを忘れてくれるなら。情欲に染まりきってくれた方がいっそ、なんてことすら願っている。
「江雪殿がっ! 良いのであれば……っ!」
肩口にはちょうど江雪の白い顔が近付き、らしくもない荒い息遣いが伝わってくる。その儚さのせいで何かを患い、苦しんでいるようにさえ見える。自らこのときだけ苦しみがないと訴えながら、どうしてそんなに必死に己を抱くのだろう。その度、言いようのない無力さを感じてしまう。
駆ける欲も、触れ合う熱の一切すら。すべて彼の雪のような美しさが氷らせてしまう、欲しいものはこの人の温もりなのにどれだけ抱き合っても己が熱されるばかりだ。そんな自分を抱いているから、あなたは苦しげなのか。患ったのは、ただ苦しいだけの恋ですか?
結局、愛した男すら救えないで何が衆生済土なのやら……
力無さに消沈しながら、その身に与えられた罰を甘受するしかなかった。
* * *
最初の情事の記憶は鮮明とはおよそ呼べない。その日は少しだけ荒れている様子だった江雪の晩酌に付き合っていて、気付けば組み敷かれていたところまではなんとなく思い出せるのに。
過ちを認めた江雪のしおらしさはとても自分を抱いた男のものとは思えず、ただひたすら謝罪の言葉を投げる彼をなだめていた記憶の方がずっと色が濃い。
「貴方は何故、私を受け入れてくださったのですか?」
縁側で胡座を掻いている山伏に対して、夜着にくるまっていた江雪がそう問い掛けた。男一人すら退けられずに戦なんぞやっているはずもないことだし、言われてみればたしかにそうだ。拒絶することはできたのに、あの白を受け入れたのはたしかに自分だった。
「……そうですな。やはり、江雪殿があまりにも美しすぎたからでしょうか?」
少しだけ固い口調になってしまったのは、そういう仲になってもどこか緊張してしまうからだろう。江雪は山伏にとっては作られた時代を踏まえても年長者であり、更には戦いにおいても一日の長がある。圧倒的ではないが、やはりまだ及ばないどうにももどかしい差であった。もう手を伸ばせば物理的な距離は埋まるのに、その差だけはちっとも歩み寄ることが敵わない。
「あまり嬉しい言葉ではありませんね」
「戦について褒められるよりはましであろう? 江雪殿は意外と我が儘な方であるな」
江雪左文字と言えば、この本丸ではそれなりの古株だった。学を求められれば与えて、戦に要請されれば浮かない顔ながら馳せ参じてくれる。何かを拒否するといった行為をしないというか、むしろ知らないのではないかと言っても過言ではないほど悪く言えば我のない男だったのだ。
それがどういうことか、自分の前だけではあのような口振りだ。口を開けば何故どうして、しかし褒めればそういうものは求めていないと言う。それでは何が欲しいのか? そう問い掛ければ決まっていつもこう答える。わからない、子どもみたいにわからないと泣きそうな顔で訴える。
「江雪殿はいつも気を張っておられるだろう。あなたはきっと少し疲れているだけだ」
「だから、私を受け入れてくださると?」
「……ま、長兄の苦労は拙僧も知るところだ。一人は根はそう悪い者ではないが卑屈家だし、末は天真爛漫でこれまた手が焼ける」
江雪も山伏も兄弟刀の一番上、つまりは長兄にあたる人物である。だから合う話もあったのだろう。思い返してみれば、お互いのことよりは弟達について話している機会の方が多かったような。遠征で怪我をして帰ってきたときは肝が冷えたとか、手合わせをするときの力加減はどうするべきかとか、そんな長兄ならではの月並みな話ばかりをしていた。
「……私達はお互いをよく知りませんね」
「体のことは知り尽くしていると言っても過言ではないがなあ」
あまり上品とは言えない冗談だったのだが、もちろんそんな洒落が通じる相手ではないので山伏の空回りに終わる。思い出しても自分ばかり笑っている記憶ばっかりで、少しでもあの綺麗な顔が微笑んでくれればそれ以上はきっと自分は望まないだろうに。
「そんなところにいて冷えませんか」
「いや、まだ熱いくらいであるぞ? 誰かのせいでな」
縁側に吹き込む風が少しだけ心地良いくらいなのは、先ほどの残り熱だ。江雪の手は恐ろしく冷たいのに、あの手で触れられるとどこもかしこも熱くてたまらない。恐れるように触れる指先がもどかしくて、もっともっとと先を望んで体が期待するのかもしれない。
男の抱き方に激しさはあまりない、猛々しさが見えるのは内側に侵入るときだけだ。前戯は肌へ氷が滑るようにゆるやかであり、口淫は執拗ながら静かな水音が響くばっかりだ。なのにこの身は熱を持つ、こんな冬の縁側でも凍える思いをしないほどに。
「……貴方は、私を抱きたいとは思いませんか?」
形だけであれ、男として受肉したのならばそう思っても不思議ではない。それは先ほどの巻き戻しのようだった。結局はどうして自分を受け入れたのかという問答の本質は変わらず、言葉だけが変わったように感じられた。
正直、どうして自分もこんな状況を受け入れたかわからない。刀として生まれたので一般的な感覚を基準にすることも難い話だが、それでも刀剣男士などと呼ばれている。自分達の本質は男なのだ。抱きたいと強い肉欲が芽生えてもまったく不自然ではないのに、あの美しい白に染められることを是としている。
「そうであるなあ。江雪殿は、いつも苦しそうで……どのようにすれば良いかと考えたときには、全て甘受していただけであったな」
「つまりそれは」
「わからないと言っては失礼か。ただ、あなたのその苦しみを取り除くには、抱き締めるより抱かれる方が良い気がするのだ。行き場のない感情を、欲と一緒に吐いてしまえば……たとえば拙僧が江雪殿の立場になったとき、そうしたいと思うことを叶えてやりたいと願ったのだ」
苛立ちに効く薬はどこにもない、ただできるのは内包した苦しみや悲しみと言った負を出してしまうことだけだ。この世界には彼らの主が生きている現世ほどにはないにせよ、そんな負を取り除く術は万ほどあろう。
けれども自分達は人であって人ではない、道具として生まれて人の形をしているだけの偽物だ。人の理で説けないからこそ、同じ運命に生まれた者同士でまさに傷の舐め合いをするしかない。それが一番の薬になるとは言えないが、それでもないよりはましなのだろう。そうであってくれなくては、男なのに毎夜組み敷かれている意味がなくて困ってしまうのだが。
「……そうですか」
「納得されましたかな?」
「まだ釈然とはしないけれども、貴方が是としているならば良いのです。私は、道具でありながら貴方を道具として扱っているようで心苦しかった……だからそれが正しいことであるという理由が欲しかっただけなのです。なんて都合の良い話でしょうね」
そうして背を向けて、江雪は寝静まろうとする。これだけ伝えても尚、自らを責めるのか。他でもないあなたを許しているのに、それでは足りぬというのだから、やはり彼は我が儘な人だと苦笑する。どれだけ触れ合っても、あなたはどこか遠くて冷たい人。
(けれども、そんなところも含めて愛しく思うのだろうなあ……)
これならばまだ、弟達の面倒を見ている方が手間ではないぞ。などとどこか嬉しそうに微笑みながら、未だ冷めない熱を夜に預けている。冷めてもまた熱を持つだけなのに、あの指がすべてを溶かしてしまう。それは、氷のように形無く消えてしまう。あの指で終わりを得られるならば、それすら受け入れてしまう自分はきっと、どこまでも彼の白の一部だった。
・・・甘い氷と苦い水。