椿と落ちる
この田舎には里子が多く出される。事情はさまざまであるが里子となった彼らはそれなりに平穏な暮らしを謳歌していて、山伏もその一人であった。彼が預けられたのは物心つくずっと前の話であり、親の顔なんぞ覚えているはずもないことだ。
ただ親はなかったけれども、里子に出された頃から一緒の弟がいる。名はそう、この田舎の奇妙な風習のせいなのだが、山姥切国広という実在する刀の名を与えられている。
堀川という家に同じく貰われ、父とは血縁関係にないけれどこの弟だけは本当の兄弟だ。見た目が似ていないのは二卵性双生児だからだとか。自分達を預けた両親が自ら言ったそうなので、信じるならばそれは真のことなのだろう。
幼い頃はどこへ行くにも一緒だった。川でも山でも仲良く手を繋いで駆けずり回り、夕暮れが迫るまで、泥だらけになるまで遊んだ。あの日に見た夕焼けの色はずっと焼き付いているし、あの頃からこの田舎はちっとも変わり映えがしない。それはたぶん、良いことなのだろう。
しかしあくる日のこと、二人は離れて暮らすことになった。とはいえ二、三年ほどの人の一生にすれば短い期間であった。田舎は田舎らしく奇妙な風習によって、幼い双子は離れて育たねばならないという習わしがあったのだそうだ。
何も知らずに遊びから帰ってきた二人だったが、訳も分からぬままに引き離された。お前達はね、魂が近すぎるから少し離れなければいけないのだよ。養父がそう言った、すべてを理解出来ないとわかってのことである。だからこそ、その言葉に押しつけは感じなかった。きっと父も辛いのだと、兄である山伏だけが理解した。
「どうして?」
「これは二人の為なんだ」
おれは、きょうだいといっしょがいい。そういって兄の手を放さずくずる弟をどうしていいものかわからなかったのだ。過ちを犯したのはきっと自分だと今ならわかる。その手をそっと解き、他でもない自分達の父がそうしなさいと言うのだからそうするべきだとまったく子どもらしくない正論を叩きつけたのだった。
「椿の花ですか」
ぼんやりと昔を思い出していたとき、涼やかな声が聞こえる。冬に響くその音の主はよく知っていて、やはりここも変わらないのだと改めて思わされた。椿の花が燃えている、まるで人の心臓みたいな色をして。
山伏に声を掛けたのは双子が育ったこの田舎の中では最大と言われる寺の住職、名は江雪左文字という寡黙な男だ。冬だろうが夏だろうが重々しい袈裟を着込み、冬の庭に佇む様は水仙のようである。
若くして彼の里親である住職から寺の管理を任された身である江雪だが、決して簡単とは言えないであろう寺の業務から雑務の一切合切を涼しい顔でこなす。なのにまったく疲労の色を感じさせないのは、全ての感情を殺しているからとでも言うのだろうか。
江雪としては里親が死んだから引き継いだまでの仕事だ。神職に就くことを拒んではいなかったとはいえ、血が繋がらなくとも育ててくれた里親が亡くなったとき、勿論ながら山伏は旧知の江雪を心配した。
山伏にとっても江雪の里親が死んだことはとても悲しく、そして大きな出来事であった。以前の住職のことも自分はよく知っている。なにせ幼い頃、この寺で暮らしたことがあったのだから。
つまり、江雪の里親は山伏の育ての親でもある。三年という短い期間であったものの、寝食を共にした家族と呼んでも言い過ぎではない。自分には顔も知らない親と、血が繋がらなくとも家族である義理の親が二人もいるのだから、まことにこれは奇妙なことだなあと不意に苦笑する。その様子を見られたか、江雪はなんとも言い難い顔でこちらを見ていた。
「貴方がここに戻ってから半年ですか。そろそろ堀川の家が恋しい頃でしょう?」
以前の住職が亡くなり、江雪一人では寺の管理も難儀だろうと住み込みを始めてもう半年。人より告げられるとより時間の重みを感じた。
境内の掃除、本堂の雑巾掛け、朝は太陽よりも早起きをして瞑想をする。学校指定のジャージ姿は少々場違いだったけれども、そのまま登下校を繰り返す利便さだけはどうしても手放しがたい。
山伏は今年で十七、地元の高校に通う健全な学徒であった。今時このような苦行を自ら望むのはただの馬鹿正直とも言える。実際はただ馬鹿をやっているわけではない。
がむしゃらになれば過去の一切を笑い飛ばせると信じた。けれども結果はどうだろう。上手く笑えているかわからない、幼い頃は何を気取ることなく微笑んでいたはずだった。
「そうであるなあ。たしかに戻りたいと思うことはある。けれども、拙僧はもうあの家の敷居を跨ぐ資格はないのかもしれないと思うとな……」
この寺で暮らした三年という歳月、人の一生にすればやはり短い。けれども当人達からすれば離れすぎた、今になってより一層そのように感じられるのだ。
堀川の家に戻った時、素直で愛らしかった片割れはどういうわけか田舎でも有名な卑屈家になっていた。その代わりにと新しく里子に出されたという、小さな小さな弟が一人ほど増えていた。
名は堀川国広、掘川の家の名を持った二人の新しい家族。血は繋がらなくとも、同じ家で暮らし慈しみ合えばそれは家族なのだと彼らの父がそう言った。
だから堀川とも家族になれると信じていたのに、小さな弟は本当の繋がりを持っている自分達を羨んだ目で見る。大兄と小兄はいいね、本当の家族だもの。悲しげに笑う、自分がそうだと信じ切っているだけだったのだろうかと今度は山伏が悲しくなる番だった。
そして片割れは自らに与えられた名を嫌う。山姥切国広とは実在する刀の名であり、それは山姥切という霊刀の写しだと言われていた。その意味を知ったときから、今の山姥切になったのだと聞いた。
どこまでも偽物でしかない自分を嫌い、しかし本当の兄からも見捨てられたと思い込んだのだそうだ。ああどうして、自分はあの日にちゃんと言ってやれなかったのか。
「双子を共に育てると他者との関わりを好まないようになる、風習ではなくそういう意味でも拙僧らは分けて育てられることになった。実際、兄弟は自分と親父殿以外とは上手く話したりできなかったのだ。だから、あの別れは正しいことだろうと思い込みたかった。家族だからこそ厳しくあらねばならない、そうたしかに思っていたのだ」
縁側から見える椿の花が首を重たそうに下へ向けて、それからぼとりと落ちた。椿は一般的な花とは違い、花びらが四散せずそれこそ首が落ちるようにして塊のままで散るものだ。その様から見舞いには向かないとされ、もっぱらこうして観賞用で収まる。けれども、山伏は落ちた椿をどうしてか羨んだ。あの花びら達は果てるときも共にあるのだろう。
山伏を含めた兄弟達ははきっと、死ぬ時は時間も場所もてんでばらばら寂しく生涯を閉じるのだろう。人間、死ぬ時は誰しも孤独だと誰かが言っていた。そうだとも、椿でなければきっとそういうものなのだろう。
「死に焦がれるには、貴方はまだまだ早すぎますよ」
「それを江雪殿が言われますか。まったく今日はどうにも気が沈む」
青髪をむしりながら、山伏がそのように言ったことには理由がある。江雪は昔、自ら命を断とうとしたことがあったのだ。そのときのことをよく覚えている。檜風呂に広がった赤い水は忘れようとしても忘れられず、あのときに山伏が気付かなければ今の彼はないだろう。住職である里親にはもちろんこっぴどく叱られた、命を粗末にするものではありませんと。寺の里子である彼が自殺などは言語道断、けれどもそんなことは承知の上でやってのけたのだろう。
「あの頃、私はこの寺にたった一人で残されて無益に時間を浪費する、そんな己へ生きる価値を見出せなかった。知っているでしょう。小夜は自らを捨てた父母を憎み、寺の教えを受け入れられずよその家へもらわれました。宗三は育ての親よりもこの小さな田舎で出会った男に恋慕を抱き、寺の息子でありながら好色に溺れたことを恥じてやはりここを去りました」
広大な敷地の管理に対して疲弊することはないようだが、江雪の後ろ姿はどことなく寂しげだ。彼の弟達であった小夜と宗三がいた頃も物静かな男だったけれども、彼らを欠いた江雪は若いながらもまるで後は死を待つばかりの老人のような哀愁を背負っていた。
ここを死に場所と決めている、そんな悲しい決意ばかりが見えていた。語り口調は淡々としていても、吐かれた思いは痛切を極める。
「……理由は異なれど、彼らは自らの意思で人生を選んだ。けれども私は言われるまま、祈りという形のみに縛られて何も選べずにいる。結局、父の跡目を継いだことにしてもそうです。何一つ選べなかった、今だって自分というものがわかりません。まるで糸で操られた傀儡のようで息苦しい、けれども私にはこれしかない。いつまでもこの平穏が続くようにと、御仏に祈るしかない平凡な男ですから」
椿のように落ちることができれば、幸いなのでしょうか。拾い上げた生命の果てにそっと呟き、それから山伏に手渡した。贈り物にしては物悲しすぎて、何の意図を持っているかすらもさっぱりだ。
「貴方はまだ戻れるし、やり直すことができます。どうかここを逃げ場所にしないでください。貴方が心のそこから、いつかのように私と家族として暮らしたいと望むのならば結構。そうでないのであれば、貴方は今すぐ堀川の家へ戻るべきですよ」
私達はもう、椿にすらなれないのですから。寂しいと思える時がまさに華。山伏がここを去れば江雪はまた一人きりだ。けれども自分が居なくとも江雪は祈りを捧げ、平穏を過ごすことだけで充分だろう。これから先もずっと、自分のように過去を悔やんで寂しいと声もなく心で泣いたりなどしない。
「ただ一言、行かないでと言ってくださればいいのだ」
「……その言葉を本当に聞きたい相手は違うのでしょう? 貴方の、真の家族である山姥切国広だけなのではありませんか?」
いかないでえ、おいてかないでえ。振りほどかれた手を握り直す、そんな簡単なことができない馬鹿な兄をあれは許してくれるのだろうか。眩い金のような微笑みは失われ、その輝きはいつだって卑屈家の弟がボロ切れで隠してしまう。
あの穂波色は兄である山伏の自慢だった、行く先々で我が兄弟は美しいだろう? と自慢げに語っていた頃すらもう遠いのだ。山姥切だけではない、血の繋がらない堀川も山伏にとっては本当の家族と同じくらい大切で愛すべき存在だ。なのに彼らは身の丈に合わないと拒絶し、各々が痛みや悲しみを抱えたままにそんな自分達から逃げた兄を疎んでいるに違いない。
「望むことは多くない。血が繋がらなくとも、偽物であっても拙僧にとってはまことなのだ。過ごした歳月がそれを証明してくれる。血は水よりも濃いなどど言うけれども……あんなものこそ偽りだろうに」
ああだから、一日でも早く全てを笑い飛ばせるようにならねばいけない。兄だったあなたなら、わかっていただけまいか? 問い掛けても返事はなかった。ただ男は青年の幸を御仏に祈るしかない、そんな無力を呪っている。
ああどうか、彼らを救ってはいただけませんか?
彼らをまことの椿に。この世で一つきりの家族にしてください、と男が祈る。
・・・死ぬ時も、私達は一つきりの。